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JCAS Review

地域研究 JCAS Review Vol.17 No.1 2017  P. 23-42  公開日:2017年3月30日
研究ノート

秦腔の俳優教育の広がる教育格差が示唆すること
──唱念教育の学校化の特徴と展開に注目して

清水 拓野

関西国際大学教育学部 英語教育学科 准教授

SHIMIZU Takuya

Abstract
Focusing on the example of Qin opera in Shaanxi province, this article will show that the premise of existing studies on actor education which assumes simple evolutionary transition from traditional apprenticeship to state-run school cannot amply capture the reality of Chinese traditional theater education today because there are increasing numbers of private school that resemble former apprenticeship system.  The article will also analyze how the existence of such private schools is creating educational inequality in actor education by focusing on Changnian education, the core practice of Qin opera education, and describe how it evolved historically and how the educational gap between state-run schools and private schools are emerging.

Keywords Qin opera, Changnian education, institutionalization, educational inequality,
traditional theater education

 

キーワード 秦腔、唱念教育、学校化、教育格差、伝統演劇教育

 I はじめに
  京劇をはじめとする中国の伝統演劇は、演技、音楽、美術、文学などといった中国文化の多様な要素を含む複雑な総合芸術であり、「舞台上の一秒間の演技は、舞台下の十年間の下積みに支えられている」という格言もあるほど、俳優の育成には労力がかかる。そして、伝統演劇界では、役者の演技力を養うために、これまで俳優教育組織の発展に力を注いできた。その結果、中華人民共和国の建国をひとつの境として、俳優教育の形態は従来の徒弟教育から公立の学校教育に変貌し、伝統演劇学校(現地の名称は芸術学校や戯曲学校)という教育組織をとおしてめざましい発展を遂げてきた(北京市芸術研究所・上海芸術研究所(組織編著)1999: 2251-2256)。俳優教育は、伝統演劇の後継者育成の問題と直接関わるものであり、今や無形文化遺産化している一部の伝統演劇の保護や継承の問題とも関係しているので、伝統演劇界でも多くの者が重視している。
 ところが、伝統演劇は、これまで脚本、音楽、美術、演技など多方面において研究されてきたものの、現地調査にもとづいて教育実践の特徴と効果を詳細に記述・分析する俳優教育研究は、まだ数少ないといわざるをえない。舞台裏で行われる俳優教育は、舞台上の華やかな演技の世界とは一線を画していて、単調で地味なイメージがあるからだろうか。とにかく、教育研究は数が限られており、公立演劇学校の教育実践の実態や俳優教育の学校化過程の動向などは、十分に捉えられているとはいえない。改革開放時代になると、公立演劇学校以外の俳優教育組織も現れて、学校化過程にも新たな展開がみられるようになったが、先行研究では徒弟制から公立演劇学校への一元的な発展としてのみ捉える傾向にある。
 本稿は、こうした事態を踏まえて、陝西地方の伝統演劇・秦腔に関する筆者の調査事例に注目しながら、俳優教育の学校化がこれまで具体的にどのように展開し、現状がどうなっているかを記述・分析するものである。そのおもな目的は、秦腔演劇界では、先行研究が前提とするような一元的な学校化過程だけではなく、民営演劇学校*1と呼ばれる俳優教育組織の登場により教育が多様化し、さらに教育格差の問題も生じている、という点を示すことである。本稿で陝西地方の秦腔を研究対象とするのは、13の王朝の都であった西安を擁する陝西省は文化大省(文化が豊かな省)と呼ばれて、昔から民俗芸能が非常に盛んな地域であり、とくに秦腔については、民衆の生活に深く根づいているので、熱烈な秦腔の愛好者・実践者などによるこの民営演劇学校が多々みられるからである。中国の伝統演劇には、京劇などのように宮廷化・都市化して発展してきたものもあるが、秦腔は現在でも農村を中心に多くのファンを抱える地方劇なので、都市を離れた近郊農村や鎮や県城においては、こうした民営俳優教育組織の存在がより際立っている事例であると思われる(cf. 田仲 1998: 1-3)。
 なお、ここでは、俳優教育のなかでも中核的な実践であり、とりわけ重視される唱念教育(changnian jiaoyu: 歌とせりふの稽古)を中心に取りあげて論じる。さらに、この唱念教育を実践する公立演劇学校と、それ以外の民営演劇学校などの調査事例からみえてくる特徴を比較分析する。最後に、それを踏まえて、俳優教育の今後についても考察し、現代中国における俳優教育の学校化とそれが生み出す教育格差の意味を検討したい。


Ⅱ 伝統演劇教育研究の基本動向
  最初に、伝統演劇教育に関する先行研究の基本動向について概観しておこう。本稿ではおもに公立演劇学校の教育実践を取りあげるので、それが全国規模で登場するようになった新中国の成立(1949年)以降の文献に絞って先行研究を概観する。端的にいえば、この分野の研究は、大ざっぱにわけて、研究者による公立演劇学校の調査報告と、現場教師などによる教育実践報告や理論研究や回想録がある。
 公立演劇学校の調査報告には、千田(1961)による建国初期のものから、有澤(2003a; 2003b)による近年のものまで、各年代の伝統演劇教育の実態報告がある(cf.細井 1986a; 1986b; 宮尾 1994)。たとえば、千田(1961)は、1950年1月に北京で創立された中国戯曲学校という京劇専門学校の様子について、その学校が創立されて10年経った時点で訪問し、教育現場の状況を記述している。また、宮尾(1994)は、香港で京劇教育を行う春秋戯劇学校を1970年代に訪れ、粤劇(広東の地方劇)の盛んな香港における京劇の人材育成事情について報告している。
 実践報告や理論研究や回想録に関しては、2000年代に入ってからとくに目につくようになったが、現在までのところまだそれほど数は多くない。一例としては、杜主編(2010)や中国戯曲学院編(2000)などによる、中国戯曲学院に関するものがまずあげられる(cf. 劉 2001)。当校は、先述の千田(1961)の文献でも取りあげられた中国戯曲学校を前身とするものであるが、新中国の社会主義体制下で最初に設立された公立演劇学校ということもあり、こうした実践報告や回想録が記念文集となるほど注目されている。一方、この他にも、董・徐主編(2012)のように、個別の学校に限定するものではないが、伝統演劇の中等教育といった特定テーマに焦点をあてた実践報告や理論研究もある。さらに、賈(2006)や劉・劉(2008)などのように、個々の学校の記述こそ少ないものの、歴史的な流れに位置づけて、より大局的に伝統演劇教育の動態を捉えようとするものもある。
 このように、伝統演劇教育の先行研究には、さまざまな時代の異なるタイプのものがあるものの、以下のいくつかの共通点もある。第一に、そのほとんどが京劇教育に関するものであり、その他の地方劇(本稿で取りあげる秦腔も含む)に関するものはみられない、という点である。第二に、歴史的変遷を踏まえて伝統演劇教育を捉える賈(2006)や劉・劉(2008)などの著作以外は、事例とされている学校と同時代の他校との比較がない、という点があげられる。そのような比較がないので、演劇界における事例校の俳優教育の相対的特徴が明確ではないのである。また、すべての著作では、新中国の建国後の事例として公立演劇学校ばかりを取りあげており、他の種類の俳優教育組織(民営演劇学校や非学校的な教育形態など)の記述がみられない。それは、新中国の建国を契機として公立演劇学校が従来の封建的な徒弟制に取って代わった、という伝統演劇界の一元的な学校化の視点を背景としているからだろう*2
  本稿は、これらの先行研究がほとんど取りあげてこなかった地方劇(ここでは秦腔)を事例とし、授業参観とインタビューにもとづいて、公立演劇学校の教育実践の特徴に注目した記述・分析を行うものである。具体的には、教育実践者のあいだできわめて重視される唱念教育の事例を中心として学校化の実態に迫るが、主要事例である公立演劇学校の教育実践を相対化するために、それを民営演劇学校とも比較し、少なくとも秦腔演劇界では先行研究が前提とするような一元的な学校化過程のみならず、教育の多様化とそれに付随する教育格差の問題も存在する、ということを示したい。


Ⅲ 秦腔の演劇教育史
 次に、秦腔の演劇教育の事例を中心に、伝統演劇教育の歴史を辿ってみたい。秦腔(写真1)とは、陝西省や甘粛省などの中国西北地域で盛んな地方劇であり、京劇よりも歴史が古く(少なくとも16世紀末ごろから存在していた)、その形成にもひと役を買ったといわれているほど、中国伝統演劇史に輝かしい足跡を残している*3(蘇 2009: 82-92)。ここでは、筆者が調査した陝西地方(図1)の状況にとくに注目する。
 
 
 
 
 
 
写真1 秦腔の上演の様子
2014年9月筆者撮影
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図1 陝西省の地図
筆者作成
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  演劇教育を取り巻く状況は、1949年の中華人民共和国の建国を境として、大きく変化した。建国前の中華民国期(1912年~1949年)ごろまでは、秦腔役者は、おもに生活に困るくらい貧しい者や孤児などがなる職業であり、何の社会的地位や社会保障もなかった。民国期当時、秦腔役者は、科班(keban)と呼ばれる俳優教育組織で養成されることが多かった。科班とは、班主(banzhu)と呼ばれる長を筆頭とする民営の集団養成組織のことをさし、①特定の劇団のために俳優養成をする劇団付属の科班と、②卒業生を人材が必要などこの劇団にも送り出す科班、という二タイプに大別できた(甄・史(編)2010: 12)。科班によって、修業年限には少しばらつきがあるものの、一般的には3年から9年ほどであった。
 科班の教育の特徴は、次のとおりである。当時の科班には、百日成戯(bairichengxi:100日間で芝居を演じられるようにする)という言い回しがあり、上演による収益をきわめて重視する前者①のタイプの科班では、100日以内に弟子に12本の短編演目と7本の長編演目を叩きこんだりしていた(甄・史(編)2010: 12)。現在の演劇学校では、100日かけてせいぜい2、3本の短編演目を稽古し終える程度なので、当時のこの稽古のペースは相当速いものであったといえる。一方、教育方法としては、師匠が弟子に口伝えで芝居のせりふや歌い方や所作などを伝える、という教授法がおもに使われていた。そして、当時の師弟関係には封建的色彩が強くみられたということもあり、この口伝えもしばしば体罰まがいのやり方を伴って、文字どおり弟子の体に芸を叩きこんでいた(斉主編 2005: 105-106)。芸は体で覚えさせないと身につかない、と考える師匠も多かったのである。
 このように、科班では、先述の“百日成戯”の言い回しが暗示するように、実践をとても重視し、口伝えという比較的単純な方法で俳優を養成していたのである。ところが、科班の大半は個人出資の民営組織だったので、経済的に安定せず、貧しくて簡素な教育設備しかもたないものも多かった。多くの科班は、民国期の戦乱の影響もあり、設立から数年で閉鎖せざるをえなくなった(羅・南ほか(編) 2011: 16-35)。なお、当時の科班では、入門時に弟子が師匠とのあいだで身売り証文的な契約書を交わした、ということをつけ加えておきたい。この契約書には、弟子は師匠に衣食住の世話や芸の稽古をしてもらう代わりに、師匠の身の回りの世話をしたり、公演活動を無償で行ったりして恩返しをすべき、ということが明記されていた(張 2003: 316-317)。
 ところで、1949年に中華人民共和国が建国されると、秦腔演劇界もまた新たな時代を迎え、演劇教育を取り巻く状況も大きく変化した。まず、これまで社会の底辺にいた役者の境遇が一変した。毛沢東は、すでに1942年の延安の文芸座談会で、他の演劇ともども、秦腔の形式や内容も、人民(とくに労働者・農民・兵士)に奉仕し、無産階級革命に貢献できるように改造すべきことを指摘していたが、新中国の建国後は、役者の政治思想、劇団の運営方式、演目内容などにも及ぶ演劇改革が全国規模で推進された(甄・史(編)2010: 152-156)。これによって、役者は、人民に奉仕する戯劇工作者として扱われるようになり、さまざまな生活上の恩恵を受けたので、彼らはそれまでの卑しくて貧しい社会的身分から脱却できるようになった(傅 2002: 1-6)。
 さらに、こうした演劇改革の影響を受けて、演劇教育の面でも、科班が戯曲学校(xiqu xuexiao)という組織に取って代わられた。これは、新中国の建国後に全国各地で設立された公立の伝統演劇学校をさし、伝統演劇による人民教化と政治宣伝の担い手である役者の組織的な養成を目的とした(北京市芸術研究所・上海芸術研究所 組織編著 1999: 1791-1802)。そこでは、科班時代の封建主義的な特徴とされていた身売り証文的な契約書や体罰などの風習は廃止され、師弟間のより平等主義的な関係をめざすようになった。また、それは国営組織なので、民営だった科班よりもはるかに経営が安定しており、国定の課程基準にもとづいて、国語や数学などの基礎科目(文化課)も重視した授業を行うようになった。

 このように、秦腔の演劇教育は、新中国の建国を境として、国が社会主義化するなかで大きく変化したが、建国後も紆余曲折を経てきた、ということもつけ加えておきたい。建国当初の1950年代や1960年代は、公立演劇学校の教育実践もかなり政治色の濃いものであり、学生は又紅又専(youhongyouzhuan: プロレタリアートの政治思想と専門技術の両方を身につけること)というスローガンのもとに、芸の習得だけではなく、政治運動や社会活動(工場や農村での労働奉仕など)などにも参加していた(陝西省戯曲学校研究室編 1959)。しかし、文化大革命中(1966年~1976年)は、旧社会を象徴する業界の者として、演劇学校関係者も敵視され、多くの公立演劇学校が閉鎖された。そして、文革後(1978年以降)は、公立演劇学校がまた続々と再開されるが、“又紅又専”のような政治思想的なことは強調しなくなり、役者が人民教化と政治宣伝の担い手であるという意識も希薄になり、学生は純粋に芸の習得に打ちこめるようになった。
 最後に、近年の秦腔演劇界で存在感を増しつつある民営演劇学校について取りあげたい。秦腔の演劇教育に関するこれまでの記述内容が示すのは、秦腔の俳優教育においても、先行の伝統演劇教育研究が指摘するように、徒弟制から公立演劇学校への学校化の過程がみられる、ということである。ところが、筆者の現地調査によって、先行研究では述べられていない民営演劇学校と呼ばれる俳優教育組織の存在も浮き彫りになった(清水 2011; 2015)。端的にいえば、民営演劇学校とは、個人出資で運営されている政府無認可の教育組織であり、おもに秦腔劇団の関係者や公立演劇学校の元教師たちによって切り盛りされている。また、公立演劇学校が国定の課程基準にもとづいて基礎科目(国語や数学など)も重視したカリキュラムを組み、公募によって教員採用し、厳格な入試とオーディションによって生徒募集し、市や省レベルの劇団に卒業生を送り出すのに対して、民営演劇学校の多くは、教育予算問題と人的資源問題から、多くの面で公立演劇学校の物理条件や教育レベルに達していない。民営演劇学校では、高齢の退職教師が多く、知名度の低さからそこまで優秀な若手教員は集まってこないので、授業の質も相対的に落ちるし、教師の入れ替わりも激しい。さらに、卒業生の多くはワンランク下の県劇団に就職するので、生徒募集で優秀な受験生を集めるのも容易ではなく、入試などもそこまで難しくない。以上が民営演劇学校の基本的特徴であるが、ここで重要なのは、この民営演劇学校がかつての科班を彷彿させ、公立演劇学校の教育形態を模しているが、それとは明らかに異質なもの(分類上は非学校的な教育形態)である、という点である。民営演劇学校のさらなる詳細については、V節以降で具体事例をあげて述べるが、こうした民営演劇学校は、先行研究が想定する徒弟制から公立演劇学校という一元的な学校化過程の範疇には収まり切らず、その存在は学校化過程が秦腔演劇界ではより多様化*4していることを示している。

Ⅳ 秦腔の唱念教育の歩み
 さて、伝統演劇教育の学校化過程の特徴をより具体的に捉えるために、ここで唱念教育に目をむけてみたい。唱念教育とは、演目のなかの登場人物の歌(唱: chang)とせりふ(念: nian)を一連の特殊な様式によって稽古することであり、秦腔の俳優教育のなかでも(京劇なども含めた伝統演劇教育一般においても)とりわけ重視されている実践である。唱念の様式は、高度に芸術化した舞台言語であり、日常生活でもちいられる言葉とはかけ離れた特徴をもつので、わざわざ時間を割いて専門の稽古をする必要がある。

1 唱念教育の歴史
 唱念教育の歴史について最初に述べよう。秦腔演劇界では、中華人民共和国の建国のころまで、唱念の稽古は、おもに師匠から弟子への口伝えをとおした単純な方法によって行われていた。すなわち、芸の体得者である師匠の手本にしたがって、弟子が歌やせりふをひと言ずつ暗誦して反復練習する、という原始的な方法である(唐 2010: 179-180)。こうした稽古法は、師匠による叩きこみと、弟子による模倣と観察を基本としていた。
 当時の稽古には、次のいくつかの特徴がみられた。まず、師匠は、弟子の喉を鍛えて、少しでも早く舞台に立たせるために、とにかく弟子にたくさん練習させ、力いっぱいせりふを述べさせたり、歌わせたりしたという。これは、当時の師匠たちが喉のしくみを考慮に入れた声楽的な発声法をまだ理解しておらず、力強く発声するのは良いことであるという認識が支配的であったからである*5(張1994: 72-75)。また、当時は現在よりもはるかに秦腔の上演機会に恵まれており、民営の科班は上演による収入を必要としていたので、先述の“百日成戯”という言い回しが暗示するように、今以上に実践を重視していたからでもある。しかし、このような稽古は、身売り証文的な契約書や体罰などに象徴される封建的な師弟関係をとおして、弟子の喉の状態をあまり顧みずに行われたので、弟子のなかには声変わりが順調に進まず、声が潰れて最終的に役者をやめた者も少なくなかったという。次の発言は、こうした旧来の稽古法を実際に経験した年配役者たちのものである。


「当時は、とにかく力いっぱい声を出すように、と師匠によくいわれました。とくに、私は隈取り役でしたので、力強く豪快に歌うことが常々もとめられました。師匠は、私の喉の調子があまり良くないときでも、それにはまったくお構いなしに、とにかく声を出すようにと促しました。私は、師匠からそういうしごかれ方をしたので、変声期をうまく乗り越えられなかったのです。ついには、声がかすれて歌えなくなり、最終的には役者をやめて、劇団の裏方役を務めるようになりました*6。」

「あのころは、現在と違って、秦腔には大変な勢いがありました。西安市内の各劇団では、ひんぱんに上演があり、役者は公演活動で連日大忙しでした。そして、そうした状況のなかで、役者の実践能力がきわめて重視されていました。だから、当時の師匠は、私たちが少しでも早く舞台に立てるようにと、ひたすら歌やせりふの練習をさせました。今の学生よりもはるかに実践の機会に恵まれていたので、実践能力がとりわけ重視されていたのだと思います。でも、歌やせりふの練習をしすぎて喉を痛めてしまい、役者をやめざるをえなくなった者も結構いました。当時の師匠がもう少し私たちの喉を労わってくれていたら、そういうことも起こらなかっただろうと、残念に思います*7。」


 これらの発言は、1940年代の状況を回想したものである。前者は西安市内のある劇団に属していた男性役者の発言であり、後者は周至県(西安の西郊外にある町)のある田舎劇団に属していた男性役者の発言である。二人とも、前節で述べた科班で修業を受けた経験をもち、そこで旧来の稽古法による唱念の練習を行ってきた。この二人の発言からは、当時の師匠が過剰な練習や非科学的な発声法によって、弟子たちの喉を痛めて役者を続けられなくしてしまった、ということがうかがえる。

 ここで興味深いのは、前者の場合、隈取り役(花臉: hualian)を専門としていたので、他の役柄を修業した弟子たちよりも喉を酷使した、という点である*8。秦腔の隈取り役の吼えるような歌声は、陝西地方の十大伝統習慣(陝西十大怪: shaanxishidaguai)のひとつにも選ばれるほど、大音量で荒々しく、インパクトがある(張主編 2000: 5)。したがって、前者の役者も、隈取り役らしく吼えるように歌えと、師匠から指導を受けてきた。その結果、彼は喉を酷使しすぎて歌えなくなり、最終的には小道具や照明などの裏方役に転向せざるをえなくなった、というのである。この話は、十分に理解できるものである。実際、耳をつんざくような大音量で歌う隈取り役の役者のなかには、この男性役者に限らず、喉を痛める者が少なくなかったので、秦腔演劇界では、この役柄の歌い方を変える必要性がこれまで説かれてきたほどだからである(張 1994: 72-75)。
 一方、後者の場合、前者のように喉を痛めて役者をやめることはなかった。それは、この後者が隈取り役のような大音量で吼えるように歌う役柄ではなく、もっと柔らかく歌う若い美男子の役(小生: xiaosheng)を専門としていた、ということとも関係があったようである。とはいうものの、後者も、役柄を問わず多くの仲間が喉を痛めて役者をやめるのを目の当たりにしてきた。彼によると、そのおもな原因は、忙しいときには1日に2、3回の公演をこなすこともあるほど多忙な公演活動に由来する、過剰な練習であったというが、利益を追求する封建的な師匠が弟子の喉の状態をあまり顧みずに稽古を行った、ということも重要な原因としてあげられるという。筆者は、調査中にこれと似たような話を同年代の他の年配役者たちからもしばしば聞いたことがある。
 以上では、1949年ごろまでの旧来の唱念の稽古法について述べてきたが、新中国の建国後、唱念教育を取り巻く状況は大きく変化した。まず、第Ⅲ節でも述べた演劇改革が本格化し、秦腔演劇界でも、秦腔を新時代の需要に即したものにするために、役者の思想や境遇から劇団の運営方式や演目内容まで、幅広い次元で改革が進んでいった。そのなかでも、唱念教育と関係が深いものとして、第Ⅲ節で言及した科班から公立演劇学校への変化があげられる。この変化は、役者の喉の状態をあまり顧みずに行っていた、旧来の唱念教育の背景にあった封建的な師弟関係の消滅をもたらした。すなわち、科班的な師弟関係にみられた身売り証文的契約書や体罰などの風習が廃止され、“尊師愛生”という理念(zunshiaisheng: 教師と生徒のあいだのより平等な関係)や、体罰に依拠せずに穏やかに道理を説くといった教育方法などが奨励されるようになったのである(北京市芸術研究所・上海芸術研究所 組織編著 1999: 1803-1804)。
 さらに、秦腔の伝統的な唱念教育は、声楽理論などの影響を受けて、質的にも変化していった。そもそも、中国における声楽教育は、清末・民初(19世紀末~20世紀初頭)ごろより西洋化が進んで、学校教育のなかにも取り入れられるようになり、教科書という形式によって西洋の歌曲や歌唱法や楽理(音楽の一般基礎理論)などを人々に伝えるようになっていた。そして、新中国の成立後は、声楽教育を行う高等教育機関の数も増え、教授法などもさらに洗練されていった(王・費(編著) 2008: 129-144)。そうした一連の流れを背景として、秦腔演劇界でも、唱念の伝統的な稽古法を理論的により充実化するために、建国後は声楽理論などが少しずつ受容されるようになった。

 ちなみに、これまで多くの名優を輩出してきた秦腔演劇界の有名劇団である陝西省戯曲研究院などでは、声楽理論を意識したそうした唱念の稽古法に比較的早くから取り組んできたが(李 2011; 張 1994)、それ以外のところでも、歌唱法についての研究や教育は活発に行われてきた。たとえば、文革中の1974年3月~1976年6月のあいだにも、各劇団の大人の秦腔役者を対象とした声楽の基礎知識を学ぶ講習が西安で開催された、という記録も残っている(陝西省戯劇志編纂委員会編 1998: 531)。一方、秦腔教育の最高学府である西安の陝西省芸術学校でも、とりわけ1980年代ごろから、声楽を専門とする教員まで雇って、声楽理論を活かした唱念教育を本格的に実践してきた(潘 1998)。
 では、唱念教育をめぐるこうした一連の変化によって、唱念の教授法はどのように変わったのだろうか。ここで、筆者が2014年9月に調査した、上述の陝西省芸術学校(五年制の公立中等学校)の事例を取りあげ、新たな特徴をもつようになった唱念教育の実態について、より詳細に記述・分析してみたい。
 
2 唱念教育の実践事例
 陝西省芸術学校は、1957年6月に西安で設立された陝西省戯曲学校を前身としており、陝西地方でもっとも古い中等の公立演劇学校である(中国戯曲志編纂委員会・《中国戯曲志・陝西省》編纂委員会 1995: 495)。ただし、陝西省戯曲学校時代(とくに文革前)は、唱念の授業で声楽理論などはまだそれほど取り入れられていなかった。そのおもな理由としては、当時の教師たちのほとんどが民国期の科班で教育を受けた者であり、科班での旧態依然とした俳優教育とはかけ離れた声楽理論などの受容に困難をきたした、ということがあげられる。また、陝西省戯曲学校は、1950年代~1960年代のさまざまな政治運動の影響を受けて、ついには1963年6月に閉校されてしまうが(より厳密には、陝西省戯曲劇院の付属俳優養成組織と合併する形で1965年6月までは存続していた)、そうした状況のなかで、唱念の教授法の本格的な革新は、実現が難しかったのである*9(潘 1998: 5-11)。
 ところで、陝西省戯曲学校は、文革終結後の1978年6月に再開され(1985年12月には校名を陝西省芸術学校と改める)、1980年ごろからは、十数年ぶりに復活した秦腔演劇専攻コースをよりよく運営するために、在職教師の能力向上をめざしたさまざまな研修会を開催するようになった。そうした研修会のなかには、たとえば、声楽理論等を学ぶための研修会といった、在職の唱念の担当教師を対象とするものもあった(潘 1998: 6)。そして、当校における唱念の教授法の革新は、当校内部にある秦腔音楽と唱念関連の教育研究室の主任教師の主導の下で、このような研修会に参加した教師たちを中心として推進されるようになった。以上が当校で唱念の教授法が洗練されていった背景と経緯である。
 次に、筆者が2014年9月に当校で行った現地調査にもとづいて、現在の唱念教育の実際状況について記述する。まず、この節の冒頭で、かつての唱念の稽古法がおもに口伝えをとおしたものであることを述べたが、現在でもその点は基本的には変わっていない、ということを指摘しておきたい。ただし、現在(調査当時)の唱念教育では、弟子の喉の状態にあまり配慮せずに過剰な練習をさせていた封建的な師匠がいなくなり、声楽理論などをもとにした発声法や呼吸法の練習を入念に行うようになった。つまり、全体として、より科学的な根拠にもとづいた稽古が行われるようになったのである(cf. 唐 2010)。
 その発声法や呼吸法の練習に関しては、具体的には次のようなことを実践している。たとえば、歌の練習に入る前に、生徒にまず簡単な発声練習をさせて、呼吸法を意識した喉ならしなどを徹底するようになった。これは、かつての稽古法が役者の喉に負担をかける非科学的なものであるとみなされ、先述の在職教師のための研修会で発声器官についての解剖学や生理学、声楽理論などを学んだ教師たちが、喉の構造や発声に関する知識をもとにして、生徒の喉(とくに変声期の生徒の喉)により配慮した唱念の授業を心がけているからである。さらに、現在の唱念教育では、秦腔の歌やせりふだけではなく、歌唱力の向上に役立つ民間歌謡の類は何でも積極的に練習させるために、授業でピアノをもちいるようにもなった(写真2)。
 これに加えて、現在の唱念の授業では、喉のしくみや病気の予防、食事の際の注意事項などについても、教師が生徒に声楽理論的・解剖学的な観点から詳細に説明するようになった(王 2001)。多くの生徒が在学中に変声期を経験するので、こうした説明は、生徒に喉を守ることの大切さを認識させるうえで重要なのである(李 2011: 42-43)。とくに、陝西地方には辛い料理が多く、そういった料理を食べすぎるのは喉に刺激を与えて良くないと考えられているので、教師は食事指導に関しては、とりわけ注意深く行っている。
 最後に、現在の唱念の稽古が、かつてほどむやみに練習させなくなった、という点は特筆に値する。先述の科班時代は、秦腔がきわめて盛んだったので、どこの劇団も公演活動が多忙であった。秦腔演劇界にそうした活気があり、当時は実践能力がとりわけ重視されたので、科班で修業中の弟子たちも、利益を追求する師匠から劇団の即戦力となることを期待され、早く舞台に立つためにたくさん練習させられたのである。しかし、現在は、改革開放政策による娯楽の多様化の影響もあって秦腔に興味をもたない者も増え、とくに都市在住の若者のあいだでは観客離れが進み、秦腔の市内公演の回数は科班時代よりも大幅に減少している。そして、公立演劇学校の在学生が公演機会をえることも難しくなっている。したがって、現在の唱念の授業では、科班時代ほど実践能力が重視されなくなり、かつてのように過剰な練習をさせることはなくなった。もちろん、今でも、生徒の歌唱力を少しでも高めようと、教師たちが熱心な稽古を行ってはいるものの、在学中の公演機会が限られているので、生徒の体に無理を強いてまで練習させることはなくなったのである。
 
 
 
 
 
 
写真2 ピアノを使った唱念の授業風景
2014年9月筆者撮影
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*1 本稿でいう民営演劇学校とは、中華人民共和国民弁教育促進法などによって私立学校の設立が奨励されるようになった1979年以降に登場し始めた、大半が政府無認可の教育組織である。形式上は学校となっているが、設立者の裁量で教育が行われており、また予算問題や知名度の低さにより、物理条件や教師と学生のレベルで公立演劇学校よりも劣る。分類的には非学校的な教育形態といえるが、当事者は民営演劇学校という呼称を使うので、本稿でもそれに従うこととする。

*2 実際、代表的な伝統演劇史の資料をみても、新中国の建国によって、かつての封建的な徒弟教育が公立演劇学校に生まれ変わった、という一元的な発展史観が支配的である(北京市芸術研究所・上海芸術研究所(組織編著) 1999: 2251-2256)。

*3 秦腔の芸能的特徴の詳細については、拙稿(2011: 14-15)を参照されたい。なお、秦腔は、2006年に国家レベルの無形文化遺産に登録された(陝西人民出版社項目組(編) 2008)。
*4 なお、秦腔演劇界では、跟班(genban)と呼ばれる非学校的な教育形態も幅広くみられたことを述べておきたい。これは、演劇学校には通わず、劇団で徒弟奉公しながら芸を学ぶことであり、必ずしも特定の師匠につくものではなかった。この跟班は、中華人民共和国の建国前は、粤劇など他の伝統演劇にも普遍的にみられたが(黄 2009: 42-43)、建国後の状況については、先行の伝統演劇教育研究では取りあげられていない。ところが、秦腔演劇界では、建国当初の1950年代になっても、跟班という形式で芸を習得する者がいたようで、実際に筆者もそうした俳優を何人も取材したことがある。ただし、現在では、跟班という言葉はほとんど聞かなくなったので、本稿でもこれ以上は取りあげないこととする。
 
*5 当時の師匠のなかにも、経験主義的ではあるが、呼吸法などに注意して唱念を教える者もいたようである(王・費(編著) 2008: 219-225)。しかし、筆者がインタビューした年配役者のなかには、声楽理論的な知識をもつ師匠に学んだことのある者は、ひとりもいなかった。
 
*6 2006年9月10日に行った当時70代後半の男性役者へのインタビュー記録からの抜粋。
 
*7  2011年9月13日に行った当時80代半ばの男性役者へのインタビュー記録からの抜粋。
 
*8 秦腔役者の役柄には、男性役(生: sheng)、女性役(旦: dan)、隈取り役(浄: jing)、道化役(丑: chou)の四大分類と、その下位分類がある。下位分類には、たとえば、男性役の下位分類の若い美男子の役(小生: xiaosheng)などがある。役者は、こうした下位分類のひとつを専門に修業する。
 
*9 当時の状況を知る者たち(陝西省戯曲学校の元教師や元生徒)へのインタビューのなかでも、おもにこれら二つの理由によって、唱念の授業では声楽理論などがそれほど取り入れられていなかった、という証言を筆者はくり返し耳にした。

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