JCAS Review
ONLINE ISSN: 1349-5038 PRINT ISSN:1349-5038
地域に内在し世界を構想する
地域研究
PRINT ISSN:1349-5038
地域研究 JCAS Review Vol.18 No.1 2018 P. 37-41 公開日:2018年3月30日
地域研究歳時記
ウズベキスタンの地方都市
シャフリサブズの大改造によせて
宗野 ふもと
筑波大学人文社会系特任研究員
SONO Fumoto
シャフリサブズは、2000年以上の歴史を持つウズベキスタンのオアシス都市である。現在は、カシュカダリヨ州北部(シャフリサブズ、キトブ、ヤッカボグ、チロクチ地区)の中心都市として、独立ウズベキスタンの英雄アミール・ティム―ル*1ゆかりの歴史観光都市として、国内外から人々が訪れる町である。私がフィールドワークをしていた2010~2011年頃のシャフリサブズは、町を南北に貫くメインストリートには、市内や周辺地区から買い物客が訪れ、また、2000年にユネスコ世界遺産に登録されたアミール・ティムールや彼の孫ゆかりの歴史的建造物には、多くの観光客が訪れて賑わっていた。
当時、私はシャフリサブズから約50キロ離れた村に住んでいた。シャフリサブズの公文書館で資料収集をしていた私は、定期的にシャフリサブズを訪れては、バザール向かいの軽食屋でホットドッグを食べ、甘いインスタントコーヒーを飲むのを楽しみにしていた。インスタントコーヒーもホットドッグも村ではめったにお目にかかれないからである。私にとってのシャフリサブズは、村の長閑だが少し退屈な生活から一息つける、一番身近な都会だった。
シャフリサブズの大改造
2016年11月、4年ぶりにシャフリサブズを再訪した私は、町の大きな変化を目の当たりにして呆然とした。メインストリートの喧噪も馴染みの軽食屋も宿も跡かたなく消え、町の中心部は人気のない広大な公園に姿を変えていたからである。かつてシャフリサブズの台所として賑わっていたバザールは真新しく改修されていたが、商売をしている人はどこにもおらず、門は閉ざされ営業している気配はなかった。私が知るシャフリサブズの面影は、ほとんどどこにもなかった。
このシャフリサブズの大改造は、2014年2月20日に発令されたウズベキスタン共和国内閣の決定「カシュカダリヨ州シャフリサブズ市における建物建設と改修に係る複合的プログラムについて」に基づき開始された。この決定では、2階建以上の最新式住宅、新しい街区、商業・サービス施設、公園の建設と、現存する建物と道路の改修が定められた(Daryo: 2014)。シャフリサブズを現代的な観光地にするのがこの決定の目的であった。2014年4月には、オク・サロイ宮殿やドルティロヴァト建築群など世界遺産に認定された歴史的建造物の周辺を公園にするため、バザールの閉鎖と改修、店舗や住民の立ち退きが開始された。立ち退きの対象となったのは約2000人の住民、面積にして70ヘクタールの土地であった(UNESCO 2017: 102)。住民が立ち退いた跡地に新しく作られた公園には、バジルの植え込み、まだ若木の街路樹、ベンチが設置された。公園を囲むようにして、観光客向けの宿泊施設やお土産屋用の建物が建設された。町を南北に貫いていたメインストリートは、公園を貫く歩行者専用道路となった。新たな主要道路として、町の中心部を周回する道路が開通した。この道路沿いには、1階に店舗が入った4階建ての集合住宅が建設された。
ドルティロヴァト建築群からオク・サロイ宮殿を望む(2016年)。周囲の民家がなくなっているのがわかる。
オク・サロイ宮殿からドルティロヴァト建築群を望む(2007年)。ドルティロヴァト建築群の周囲に民家が密集しているのがわかる。石村育美氏撮影。
立ち退いた人々──Fさん一家の再出発
2010~2011年のフィールドワーク中、私のシャフリサブズの定宿は、メインストリート沿いにあるFさん一家のゲストハウスだった。彼らの家は、築200年以上の古い家で、中庭を囲む部屋の配置と、部屋にしつらえられた壁龕は、ウズベキスタン定住地域の伝統的家屋の様式を有していた。ところが、町の大改造にあたりFさん一家は立ち退きを余儀なくされ、家も取り壊された。
2016年、私はFさんの新居を訪れた。彼らは現在、町の中心部から4キロほど離れたところにある、立ち退いた人々のために造成された土地に住む。Fさん一家は、割り当てられた区画に家を建て、新しい生活を始めていた。立ち退き勧告がなされたとき、彼らは、築200年以上の我が家は歴史的価値が高く取り壊す必要はないと主張し、立ち退きを拒否し続けたという。しかし、隣人がすべて立ち退き、バザールも閉鎖され「パンを買うこともできなくなってしまった」ため、立ち退きを決断するに至った。Fさん一家は、我が家の取り壊しを食い止められなかったことを複雑な表情で語った。
立ち退きと生活再建の最中にあって、Fさん一家が現状を前向きに捉えていたのは、私にとって大きな驚きだった。新居があるのは新しい造成地ということもあり、インフラは整っていなかった。しかし、彼らは「以前の家は小さかったけれど、今の家は大きな庭があるから野菜や花を育てている」と話した。さらに彼らは養蜂も行い、庭の隅では羊も飼う。「以前の家は、住宅が密集した町の中心部にあったので、養蜂や臭いが出る家畜飼育なんて考えられなかった」とのことである。ゲストハウス経営をしていた息子のLさんは、現在は他の仕事に就き、稼いだお金で少しずつ家を建て進める。Lさんの夢は、ゲストハウスを再開することである。Fさん一家にとって、シャフリサブズの大改造は、家だけでなく仕事も失うという生活基盤を揺るがす大きな出来事だった。しかし、彼らは昔の生活を懐かしみつつも、新天地での生活再建にエネルギーを注ぐ。
大改造に対する評価──ユネスコと現地
2016年7月に開催されたユネスコ世界遺産委員会で、シャフリサブズ歴史地区は「危機遺産」に認定された。危機遺産は「武力紛争、自然災害、大規模工事、都市開発、観光開発、商業的密猟などにより、その顕著な普遍的価値を損なう重大な危機にさらされている」(*2)世界遺産である。ユネスコは、シャフリサブズの大改造を、歴史的建造物の不適切な修復や旧市街地の家屋及び地域コミュニティの破壊をもたらし、「シャフリサブズ歴史地区」の価値を著しく傷つけたと評価した。さらに、2017年に開催された世界遺産委員会では、ユネスコに対し大改造に関する情報提供が事前になかったこと、2016年に事業中断を要請したにもかかわらず大改造が続けられたことに対する遺憾の念が表明された(UNESCO 2017: 104)。
一方で、ウズベキスタンではこの大改造を支持する人は多い。例えばシャフリサブズの人々は、整備された観光地や拡幅された道、現代的な建物を生活水準向上の証として捉えているし、周辺村落部の人々は「シャフリサブズは素晴らしくなった!」と言い見物に訪れている。こうした捉え方は、私たち外部者がシャフリサブズに田舎町の長閑さや、アミール・ティムール所縁のシルクロードのオアシス都市を期待するのとは異なる、町の景観や生活環境への期待である。近年、ウズベキスタンではGDP成長率7~8%(世界銀行データ*3)を達成している。失業やインフレの常態化といった問題はあるものの、零細ビジネスの活性化や商業施設の増加など、一般の人々が日常生活の中で経済成長を実感することは多いようだ。好調な経済を背景として、首都タシュケントは建築ラッシュの様相を呈し、街の様子は刻々と変化している。町の大改造はタシュケントやシャフリサブズに限ったことではない。ウズベキスタン随一の観光都市サマルカンド、ホラズム州の州都ウルゲンチ、カシュカダリヨ州の州都カルシなど、全国各都市で大改造が行われている。そして、町の大改造によって出現した整備された観光地、真新しい建物、広い道路などを、現地の人々は、ウズベキスタン発展の象徴として将来への希望と共に捉える。とはいえ、すべての人が大改造を支持しているわけではなく、この流れを危惧する知識人も存在している。
シャフリサブズの今後
2017年秋にシャフリサブズを訪れたときも、町の外周道路沿いでは集合住宅の建設が続いていた。多くの人で賑わっていた町の中心部は広大な公園になり、土産物屋や宿泊施設が並んでいたが、公園に人影はまばらで、店舗にも空きが目立っていた。往時の賑わいがすっかり消えたことに対して、私は再び寂しさを覚えた。しかし、感傷に浸るのは私の様な外国人だけなのかもしれない。人影まばらな広場は、そのうち憩いの場として賑わうのだろうし、空き店舗では商魂たくましい土産売りが商売を始めるのだと思う。
シャフリサブズの大改造を通して、ウズベキスタン経済が上向いていること、歴史遺産保全・活用をめぐるウズベキスタン側と国際機関の捉え方に差異があることが浮き彫りになった。ソ連が解体した1991年から2000年代初頭、経済の混乱に伴う生活水準の低下という苦境を経験したウズベキスタンの人々にとって、近年の経済成長は待ち望んでいたものである。立ち退きを余儀なくされたFさん一家が、苦境にありながら前向きに生活を再建していたのも、シャフリサブズの大改造を発展の証と捉え「生活状況はよくなっていく」と確信していたからだと思われる。歴史的建造物を美しく修復し、周囲を整備し「際立たせる」ことは、ウズベキスタンの発展を映すものであり、これが現在のウズベキスタンで主流の歴史遺産の保全・活用なのだろう。ウズベキスタン側の捉え方は、「歴史的建造物と周辺地域の調和」というユネスコが掲げる歴史遺産保全・活用とは、方向性を異にしている。
2017年のユネスコ世界遺産会議では、シャフリサブズ歴史地区の普遍的価値は相当に損ねられたままだと評価され、危機遺産継続が決定された。世界遺産は外国人観光客訪問の呼び水になっているため、観光化を進めるウズベキスタン政府は、世界遺産認定取消につながりかねないこの事態には対処せざるを得ないだろう。ウズベキスタンにおける歴史遺産保全・活用、さらには観光開発や都市開発の行方には、今後も目が離せない。
註
*1 アミール・ティムールは、中央アジアから興った国家としては最大の版図を持ったティムール朝(1370-1507)の創始者。ソ連史学では、「侵略者」や「人民の抑圧者」として否定的な評価がされていた。ソ連解体後は、ウズベキスタンを基盤に強大な国家を建設した独立国家ウズベキスタンの象徴として位置づけられている(小松 2005: 362)。
*2 http://www.unesco.or.jp/isan/crisis/(2017年12月25日閲覧).
*3 http://www.worldbank.org/en/country/uzbekistan/overview(2017年12月25日閲覧).
参考文献・引用文献
小松久男 (2005) 「ティムール」小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、361-362頁。
Daryo (2014) Shahrisabzda sayyohlarga xizmat ko‘rsatadigan 18 obyekt quriladi (4. 4). (2017年12月25日閲覧).
UNESCO (2017) State of conservation of the properties inscribed on the List of World Heritage in Danger (UNESCO/Paris).
■執筆者紹介
①氏名(ふりがな)……宗野ふもと(そうの・ふもと)
②所属・職名……筑波大学人文社会系・特任研究員
③生年と出身地……1982年、静岡県静岡市生まれ
④専門分野・地域……中央アジア地域研究、文化人類学、調査地域はウズベキスタン
⑤学歴……関西大学文学部哲学科(美学・美術史専攻)卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程単位取得認定退学
⑥職歴……2014~2015年、国立民族学博物館外来研究員、公益財団法人京都市景観まちづくりセンターまちづくりコーディネーター、2016~2017年、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員
⑦現地滞在経験……2009~2011年にかけてウズベキスタンに調査のため留学した。
⑧研究手法……フィールドワークに出ないと「問い」が見えてこないので、フィールドワークは欠かせない。特に、参与観察、インタビューを主とするフィールドワークを重視している。
⑨学会……日本中央アジア学会、日本文化人類学会
⑩研究上の画期……1991年のソヴィエト連邦の解体。それまでソヴィエト連邦を構成する共和国の一つだったウズベキスタンは、ソ連の解体によって独立国家になり、計画経済から市場経済への移行が本格化した。
⑪推薦図書……アレクシエーヴィチ、スヴェトラーナ(2016)、松本妙子訳『セカンド・ハンドの時代──「赤い国」を生きた人々』岩波書店。