新居田氏が新村出刊行助成を受け出版した本書(黃迎春氏による中国語編訳及び土田滋氏による監修)を一言で説明するなら台湾先住民族のサオ族――漢語では邵族――の言語、サオ語の辞書並びに文法解説である。ちなみにサオとは「人」を表す語である。本書表紙・裏表紙には白い鹿がデザインされているが、これはサオ族に伝わる口承伝説に基づく。白い鹿を追っているうちに見たこともない湖を発見し、そこに暮らすようになったという話である。佐山(1919:192–193)における口承によると、嘉義縣大埔郷から白鹿を追って南投縣魚池郷へと移り住んだことになる。
古くから台湾は様々な先住民族が暮らす地であり、これら台湾先住民族の言語はオーストロネシア語族に属する。サオ族はこれら種族の中でも特に人口が少なく、分布地域も狭い。現在サオ族は台湾中央あたりに位置する湖、日月潭の周囲に暮らしており、近接する有力な種族であるブヌン族の影響を強く被ってきた。そのため日本統治時代の種族の分類では、例えば伊能・粟野((1900)2017: 86)においてブヌン族の一派として扱われることもあった。サオ族がブヌン族の一派ではないことを、言語学的な分析により主張したのがBlust(1998)である。サオ語に見られるブヌン語と同一の単語は、借用されたものであることを音韻的に証明し、また語彙的には台湾西部平原の先住民諸語に近いことを示した。
台湾は約3、4百年ほど前から日本統治時代(1895–1945)が始まる頃まで、絶えず漢民族が移入し続け先住民族の居住地域を侵略してきた歴史がある。そのような状況下で、元来の土地や言語を失った先住民族は次第に漢民族化していった。最も早くに漢民族化したのがシラヤ族を代表とする平地に暮らしていた先住民族であった。清朝時代、これら漢民族化した種族は熟番(完全に漢民族化した先住民)と呼ばれた。ちなみに「番」とは当時用いられていた先住民族に対する別称であり、日本統治時代の資料では「蕃」と記されることが多い。熟番に相対する呼び名が生番(そのままの先住民)であり、ブヌン族を代表とする山地先住民族がこれに属する。
サオ族の暮らす日月潭周辺は山がちな土地であり、漢民族化の波が押し寄せるのも一歩遅かったようである。しかし1717年に編纂された『諸羅縣志』(周(1717)1983: 151)には、康煕32(西暦1693)年にサオ族は清朝に降伏し納税するようになったとある。漢民族化が一歩遅いということでサオ族は、水沙連化蕃(水沙連地方の漢民族化しつつある先住民族)と呼ばれた(伊能・粟野 (1900)2017: 86)。伊能(1996: 225)の文献調査によるとサオ族は乾隆46(西暦1781)年頃には漢民族化し漢語を話すようになったが、固有の習俗はなお保存しているとある。伊能自身も1898年時点での踏査において、サオ族は漢民族と雑居しており、特にサオ族の女性と子供は漢語を流暢に用いるが、未だに固有の風俗は残していると観察している。それから百年以上の時間が経つ間に日本統治時代、国民党時代を経験し、優勢言語としての日本語や中国語の影響も被り、サオ語は衰退の一途を辿っていった。
本書はサオ語を母語とする最終世代の話者、1923年生まれのキラシ氏(男性、漢名は石阿松)が主なインフォーマントとなっている。キラシ氏はBlust(2003)によるサオ語辞典編纂の際にもインフォーマントを務めた経歴を持つ。キラシ氏のようなサオ語を母語とする最終世代の人々の言語状況は複雑を極める。サオ語が母語と言っても、閩南語も母語同様に流暢に操る。さらにブヌン語も話せる。日本統治時代に生を受けたため日本語も話せる。その後国民党の統治下では中国語を用いるようになる。つまり、二つの先住民諸語(サオ語・ブヌン語)、二つの漢語(閩南語・中国語)、そして日本語の五つの言語に堪能である。その中でも恐らく使用頻度のもっとも限られた言語はサオ語と日本語だろう。本書著者はキラシ氏に就いて2002年から15年あまりサオ語を学んだそうだが、両者の意思疎通の共通言語は日本語であった。キラシ氏は著者との交流に啓発され、これまでインフォーマントを務めた経験を糧に、自らサオ語の語彙表をカタカナ表記で編纂することになる。そしてこのキラシ氏の語彙表は著者の新居田氏に送られ、安部・新居田(2007)として出版された。
本書は主に辞書の部と文法の部から成る。そのうち主眼である辞書の部「サオ語辞典」は二組の研究者とインフォーマントの橋渡しによって作られているのが特徴である。一組目は言語学者の土田滋氏とサオ語インフォーマントのプニ氏(女性)である。土田氏は1987年、プニ氏のもとでサオ語のフィールド言語調査を行った。このときの調査資料は、安部・長嶋・新居田(2008)に参照することができる。二組目が、本書著者の新居田氏とインフォーマントのキラシ氏である。新居田氏はキラシ氏を協力者とし、土田氏の調査資料に挙げられたプニ氏の単語の一つ一つを再確認していった。土田氏とプニ氏による言語資料を、新居田氏とキラシ氏が精査し直した成果が本書の辞書の部である。著者の見出し語の選択にも特徴がある。語根のほとんどはそのままの形式で用いられることはなく、何らかの接辞が付いた形式が用いられる。著者が見出しとして挙げるのは接辞がついて屈折・派生した形式、つまり実際に用いられる形式である。そのため同一語根から屈折・派生された形式が辞書中に散在することになり、言語の専門家からすれば非合理的と言われるだろう。そのような言語の専門家用としてはBlust(2003)が最も有益な辞書であり、あくまで著者の立場はサオ族の人々が思いついた単語を引ける辞典であり、実際に用いられる語がすぐに参照できる辞典である。著者は、言語の専門家としてではなく、母語話者キラシ氏の視点に立って辞書の編纂に当たったことが読み取れる。さらに次世代のサオ族が言語復興に携わる際にこの辞書を活用することを念頭に置いているのだろう。
辞書の部の補助としての文法の部は、著者がキラシ氏に就いて研究したサオ語の文法項目、存在・所有、否定、可能、証拠性、焦点接辞、状態接辞、兼語構造、指示詞、授受表現、テンス・アスペクト・語順・複文などを著わしている。また本書の付録にはキラシ氏を含めた三人のサオ語話者の文型を表にした文型集が収められている。サオ語は言語を使用する人も限られており、言語使用の場面は極めて限られたものである。言語を矯正する社会的構造の欠如した状況下でサオ語の個人差も大きくなっていったことが三人の文の構造・語彙の相違などから見て取れる。さらにもう一つの付録としてキラシ氏による談話資料が三篇集録され、巻末には中国語引きと英語引きの索引も付されている。
サオ語の記録は約百数十年前までにしか遡れない。管見の限り最も古い記録はBullock(1874)であり、百数十に上るサオ語の単語が記録されている。このほか1875年に始まる光緒年間の早期に記された「化番六社志」にも数十の単語が漢語表記で記録されている(伊能嘉矩による抄本「化蕃六社志」が参考になる)。伊能(1996: 217翻訳者の楊による脚注)によると、「化番六社志」は光緒20(西暦1894年)に記された「埔水番戸口册」に抄録されているということであり、少なくともそれ以前、つまり日本統治時代より前に書かれたことがわかる。日本統治時代におけるサオ語の資料として佐山(1914)の付録における語彙集、または小川(2006)の語彙集が挙げられる。ここまでは語彙の記録にすぎなかったが、国民党時代(1945年から)に入り漢民族によって行われた研究の皮切りとして李ほか(1956)は、サオ語の語彙を挙げる他に、接辞など形態論について簡潔な記述を補足した。その後もサオ語の音韻に関する考察(Li 1976)などが発表されたが、サオ語の全般的な文法の記述は黃(2000)を俟たなければならなかった(インフォーマントの一人はキラシ氏である)。この参照文法は、言語学界において少数言語のフィールド調査が盛り上がりを見せていた時代に、台湾先住民諸語研究シリーズの一書として発行されたものだが、この時点でサオ語はすでに消滅に瀕した言語(本書題目の「瀕危語言」)となっていた。黃(2000)に描かれた文法は数百年間にわたりブヌン語・閩南語・日本語・中国語など優勢言語の影響を受けて変容してきたサオ語の姿を表しているもので、それ以前のサオ語の在り方を探ることはほぼ不可能である。最近、台湾先住民諸語研究の後続のシリーズが発行され簡(2016)がサオ語の記述を受け持った。主要なインフォーマントはもちろんキラシ氏である。
サオ語最期のそして最良のインフォーマントであったキラシ氏が2017年に90歳を超える高齢で他界した現在、本書はサオ語の資料の最期を飾る書になったと言える。本書は中国語と日本語で記されており、注釈には英語も付すという配慮をしている。サオ族のみならず、台湾、日本、そしてその他の地域の専門家や先住民族に関心のある人々の目に触れる機会も少なくないだろう。
■参考文献
安部清哉・新居田純野編(2007)『石阿松氏『サオ語語彙4000』──仮名が記録した太平洋の“危機言語”』学習院大学東洋文化研究所。
安部清哉・長嶋善郎・新居田純野編、土田滋監修(2008)『サオ語(台湾・邵語)語彙(英語・日本語索引付き)──サオ語研究II』学習院大学東洋文化研究所。
Blust, Robert (1998) Some Problems in Thao Phonology. Shuanfan Huang (ed.), Selected Papers from the Second International Symposium on Languages in Taiwan. Taipei: Crane, pp.1-20.
Blust, Robert (2003) Thao Dictionary. Language and Linguistics Monograph Series A5. Taipei: Institute of Linguistics (Preparatory Office), Academia Sinica.
Bullock, Thomas L. (1874) Formosan Dialects and Their Connection with the Malay. China Review, or Notes and Queries on the Far East 3: 38-46.
伊能嘉矩(1996)『台灣踏査日記〈上〉』楊南郡譯、臺北:遠流。
伊能嘉矩(1896)「化蕃六社志」抄本、[深化臺灣核心文獻典藏數位化計畫(資料番号M011_00_ 0095_0118)] dtrap.lib.ntu.edu.tw(2019年2月1日)。
伊能嘉矩・粟野傳之丞((1900)2017)『台湾蕃人事情』傅琪貽譯注、新北:原住民族委員會。
Li, Paul Jen-kuei (1976) Thao Phonology. Bulletin of Institute of History and Philology 47(2): 219-244.
簡史朗(2016)『邵語語法概論』新北:原住民族委員會。
黃美金(2000)『邵語參考語法』臺北:遠流。
小川尚義(2006)『臺灣蕃語蒐錄』李壬葵・豊島正之編、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所。
李方桂・陳奇祿・唐美君(1956)「邵語記略」國立臺灣大學考古人類學刊7: 23-51。
佐山融吉(1919)『蕃族調査報告書・武崙族前篇』台北:臨時臺灣舊慣調査會。
周鍾瑄編((1717)1983)『諸羅縣志』臺北:成文。
■評者紹介
①氏名(ふりがな)……落合いずみ(おちあい いずみ)
②所属・職名……日本学術振興会特別研究員PD/神戸市外国語大学
③生年と出身地……1979年、青森県
④専門分野・地域……オーストロネシア語族(台湾)
⑤学歴……京都大学文学研究科(言語学専修)博士
⑥職歴……日本学術振興会特別研究員PD
⑦現地滞在経験……台湾
⑧研究手法……フィールド言語学的手法(観察・聞き取り・記録・分析)
⑨推薦図書……佐山融吉編(1913–1921)『蕃族調査報告書』臨時臺灣舊慣調査會